企業家人物辞典 >> 経済傑物列伝 >> 偉人データ
 
 
 
本田宗一郎【ほんだ・そういちろう】ホンダ創業者

更新日: 2007-05-04 

本田 宗一郎【ほんだ・そういちろう】


【肩書き】ホンダ創業者
【生年月日】1906年11月17日
【没年月日】1991年8月5日
【出身地】静岡県
【学歴】二俣尋常高等小学校(現在の中学校に相当)
【経歴】
本田技研工業の創業者。「モノ作りのロマンチスト」と呼ばれた技術者型経営者。自由奔放な性格、明るい人間性、ホンダイズムと称されるチャレンジ精神などから幅広いフアンがいる。自動車修理工から身を起こし、オートバイ「ドリーム号」「スーパーカブ号」などを次々に開発し、二輪車で世界のトップメーカーとなる。その後、四輪車に進出、藤沢武夫とともに一代でホンダを世界的な企業に成長させた戦後を代表する技術型経営者。日本人として初めて米国の自動車殿堂入りを果たす。

生い立ち
1906(明治39)年11月17日、静岡県磐田郡光明村(現・天竜市)に生まれる。父儀平、母みかの間に生まれた長男である。父親は鍛冶屋で小さいころから工具とともに育った。早くから機械いじりに興味を持ち、小学校でも試験管や機械が出てくると勉強したが、それ以外は無関心で通信簿の成績は芳しくなかった。高等小学校の頃父親が自転車屋に転業。

自動車修理て独立
1922(大正11)年、二俣尋常高等小学校(現在の中学校に相当)を卒業と同時に、東京・本郷の自動車修理工場、アート商会丁稚奉公。6年の勤務の間に自動車修理と運転技術を体得する。1928(昭和3)年、暖簾分けを受けて浜松に「アート商会浜松支店」の看板を掲げて独立。卓越した技術と当時同業者がほとんどいなかったで自動車修理業は大繁盛し、工員も50人ほどになり月の利益は1000円を越え、25歳の頃には自家用車を2台乗り回し、芸者をあげて毎晩遊びにふけり、あげくに酔っぱらい運転で芸者ともども天竜川に落ちたこともある。1934(昭和9)年、修理業にあきたらずメーカーを志し、ピストンリングの制作を開始。1935(昭和10)年11月20日、磯部さちと結婚。1937(昭和12)年、ピストンリングの制作がなかなかうまくいかず、鋳物の基礎知識を学ぶため浜松高等工業機械科(現静岡大学工学科)の聴講生となって基礎から勉強を始める。2年ほど通学するが、必要な授業しか聞かずに試験さえ受けない。学校側から「試験を受けないものに免状はやれない」と退学勧告を受けたが、宗一郎は「免状はいらない。免状をもらいに学校に来ているのではない。免状では飯は食えない」といって校長を激怒させている。2年後にはピストンリングの製造に成功する。1939(昭和14)年、東海精機重工業社長に就任し1940(昭和15)年ついにピストンリングをトヨタ自動車に納入、メーカーの仲間入りをする(この時、自動車修理業は弟子に譲る)。戦争中は軍需工場となる。1942(昭和17)年、長男・博俊(無限代表取締役)誕生。終戦後2ケ月程したころ、1945(昭和20)年10月、東海精機重工業の株をトヨタに45万円で売却。突然「休息宣言」なるものを勝手に出した。

世界のホンダへ
1946(昭和21)年10月、浜松市に本田技術研究所設立、旧陸軍無線機用の小型発電機を自転車用補助エンジンに転用して売り出す。この自転車(通称「バタバタ」)は大ヒットする。エンジンそのものの開発へと進む、開発を決めたのは1947年に入ってからの事だった。1948(昭和23)年9月24日、浜松市板屋町257番地に本田技研工業株式会社を資本金100万円で設立、また浜松市の板屋町というところに研究所を移し本社とし、オートバイ生産に着手した。1949(昭和24)年「ドリームD型」発表。10月、生涯の経営パートナー藤沢武夫が専務として入社。1950(昭和25)年3月に本田技研東京営業所が東京駅近くの京橋に完成する。これは宗一郎の悲願である「全国制覇」への第一歩であった。1951(昭和26)年3月、北区上十条の東京工場が稼働開始。ドリーム号で当時トラックのみならず、乗用車やオートバイにとってもここを越えるのは難しかった箱根越えを成功させ、7月に名前を正式にドリームE型とし東京の上十条工場での生産を開始、発売と同時にドリームE型は小型オートバイの販売台数トップに躍り出た。1952(昭和27)年、4億5000万円の工作機械輸入、実に資本金の30倍の設備投資を行う。小型エンジンの発明により、藍綬褒章受章。1954(昭和29)年、英国マン島T・Tレース出場宣言。売行き不振で深刻な経営危機に陥いる。1955(昭和30)年、本田技研工業、2輪者生産台数日本一達成。1958(昭和33)年、スーパーカブC100型発売。以後、現在まで世界的なロングセラーを記録。1959(昭和34)年、マン島レース初参加。1961(昭和36)年、マン島レースで1〜5位を独占して完全優勝する。

自動車メーカーへ
1962(昭和37)年、自動車産業に進出し、軽トラックと小型スポーツカーの昭和360、N360を発表。三重県鈴鹿市に「鈴鹿サーキット」完成。1964(昭和39)年、F1GPに挑戦(1968年撤退)。1965(昭和40)年、F1メキシコGPで初優勝。1967(昭和42)年、軽自動車でシェアトップ。1972(昭和47)年、低公害のCVCCエンジン発表。アメリカの排ガス規制法であるマスキー法規制に世界ではじめて合格する。

ホンダDNA
1973(昭和48)年、本田技研工業社長を退任、副社長の藤沢武夫と共に取締役最高顧問に就任。潔い引退ぶりに脚光を浴びる。1974(昭和49)年、ミシガン工科大学より名誉工学博士号をおくられる。1977(昭和52)年、環境と技術の調和のためにエコテクノロジーを提唱、本田財団を創立して、この主張の国際的展開をめざした。1980(昭和55)年、アメリカ機械学会より日本人としては50年ぶりにホーリーメダルを受賞。1982(昭和57)年、日本商工会議所副会頭、行革推進フォーラム代表世話人に。1983(昭和58)年、F1レース復帰(1992年撤退)。取締役を退き、終身最高顧問になる。1988(昭和63)年、藤沢武夫死去。1989(平成1)年、自動車文化に貢献した人々を永遠にたたえるAu大正o明治o大正ive 平成all of Fa明治e(ミシガン州)に、日本人としてはじめて殿堂入りした。1990(平成2)年、国際自動車連盟より史上3人目のゴールデンメダル賞受賞。1991(平成3)年8月5日、84歳で逝去。

【年表】
明治39年(1906)11月17日静岡県磐田郡光明村に生れる
大正11年(1922)4月アート商会(東京・自動車修理工場)入社、6年間勤務
昭和3年(1928)3月同社、退社
昭和3年(1928)4月独立して、浜松アート商会 設立
昭和12年(1937)4月浜松アート商会を東海精機重工業鰍ノ社名変更、取締役社長就任(ピストンリング製造を開始)
昭和19年(1944)9月同者取締役社長を退任
昭和21年(1946)10月本田技術研究所を設立、所長として内燃機関及び各種機械の製造並びに工作法の研究に従事
昭和23年(1948)9月本田技術研究所を継承し本田技研工業鰍設立、同社取締役社長に就任
昭和48年(1973)10月同社取締役社長を退き、取締役最高顧問に就任
昭和58年(1983)10月本田技研工業且謦役を退任、終身最高顧問となる
平成3年(1991)8月5日没 享年84歳



キーワード:【ほ】[静岡県][1900代生][1990代没][1906][11-17]

参考文献検索

[前頁]  [目次]  [次頁]