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川上源一【かわかみ・げんいち】ヤマハ中興の祖、ヤマハ発動機創業者

更新日: 0000-00-00 

川上 源一【かわかみ・げんいち】


【肩書き】ヤマハ中興の祖、ヤマハ発動機創業者
【生年月日】1912年1月13日
【没年月日】2002年5月25日
【出身地】静岡県浜名郡豊西村(現・浜松市恒武町)
【学歴】1934年、高千穂高等商業(現・高千穂大学)卒業
【経歴】
ヤマハを楽器やオートバイのトップブランドに育てたほか、スポーツ用品、リゾート事業も手がけ、グループの多角化にも大きな成果を挙げ、ヤマハ中興の祖と呼ばれる。しかし、強烈な個性とワンマンぶりから「川上天皇」とも称され、浩氏まで川上家が3代、社長の座に就き、世襲制への批判も噴き出した。
1912(M45)年1月、静岡県浜名郡豊西村(現・浜松市恒武町)で、日本楽器製造社長を務めた川上嘉市氏の長男として生まれる。
1934(S9)年、高千穂高等商業(現・高千穂商科大)卒業後、大日本人造肥料(日産化学工業の前身)へ。

1937(S12)年7月、父嘉市氏が社長を務めていた日本楽器製造(現ヤマハ)に入社、1946(S21)年、取締役に就任。1950(S25)年には、嘉市氏のあとを受けて4代目社長に就任。製造ラインの合理化に努め、同社をピアノ生産量で世界一の座に押し上げた。
1959(S34)年に日本で初めて電子オルガンを開発、「エレクトーン」の商品名は、電子オルガンの代名詞にもなっている。

さらに1966(S41)年には財団法人ヤマハ音楽振興会を設立し理事長に就任。国内はもちろん世界各地に音楽教室を開設、音楽の普及にも大きな功績を残した。なかでも子どもたちの音楽の自作自演活動JOC(ジュニア・オリジナル・コンサート)は、世界各地で演奏会を開き、幅広い評価を得ているほか、JOC出身の数多くのアーティストが音楽界の一線で活躍している。1995(H7)年から名誉会長。

1954(S29)年にはオートバイ事業に進出し、翌年の1955(S30)年には赤トンボの愛称で親しまれた「YA−125」が大ヒット、ヤマハ発動機を設立して社長を兼務。その後、ホンダに続く世界2位のオートバイメーカーに成長させた。1982(S57)年、ホンダとの二輪車シェアをめぐる激烈なトップ争いは、2万円台バイクまで登場させ、「HY戦争」と呼ばれた。

その他、ピアノフレーム材の技術を応用したスキー板などのスポーツ用品やリビング用品、マリンレジャー用品などにも進出。さらに合歓の里(三重県)、つま恋(掛川市)など大規模なレクリエーション施設を開発し、積極的な多角化と海外進出で世界のヤマハグループを築き上げた。

1977(S52)年にいったんヤマハの社長を退いたが、後継者と経営方針をめぐって河島博社長(元ダイエー副会長)と対立、3年後の1980(S55)年に河島博氏を解任して再び第6代社長に復帰、話題になる。1983(S58)年に長男の浩氏に社長の座を譲った、社長退任後も相談役、会長などとしてグループの経営に力を振るい「川上天皇」と呼ばれる。1992(H4)年2月に浩社長が辞任したのを機に源一氏も現役を退き、最高顧問となり、40年以上君臨してきた経営の第一線から事実上退いた。以来、ヤマハグループの表舞台には姿を見せず経営に対しても一切口を閉ざした。晩年は長期の入院生活が続いていた。

2002(H14)年5月25日午後5時32分、老衰のため静岡県浜松市の病院で逝去。享年90歳。



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